フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

久々に友達がいなくて焦るって感覚を取り戻した

少々前置きが長くなる。それから前半は若干脱線気味のような気もする。
見出しの「人と関われないことがもどかしくなり始めた」あたりからが、タイトルとの関連性が高くなると思う。
 
一番焦ってたのは小学生~高校生の頃
 
かつて俺らが学級生活を営んでいた頃、どれだけたくさんの他者との交友があるかということが、立場の強さを大きく左右したものだった。
立場の強さが居心地の良し悪しを決定づけて、学校生活どころかその後の人生にすら影響を及ぼした。
 
日陰者の経験が豊富である俺から見て、学校・教室は極めて頭のいかれた環境だ。
精神の幼い子供数十名を同じ空間に朝から夕方まで数時間閉じ込めて、悲劇が起きないはずもない。
子供たちとかつて子供だった俺たちは立場の強さ、ひいてはどれだけ他者から認められているかということを教室の中で競い合っていた。
 
現代だとその枠はインターネットで物理的な距離を越えて、クラス内カーストというものが日本中にまで領域を拡大しているという印象も持つ。
教室の中だけではなく、インターネットを通じて競争は焚き付けられ、優越感と劣等感を植え付けられる。
 
子供たちは友達の量も競うが、友達の質も競う。
これはどういうことかというと、「偉い奴と友達であれば自分も偉い」ということだ。
俺たちは他者より優位に立とうとする試みと、中心的人物に迎合し取り入ろうとする試みの両方を同時に行った。
その両方が、幼い歪な自尊心を満たすために必要だったからだ。
 
ましてや現代の少年少女の自尊心は、情報伝達の高速化などによって輪をかけて歪められている。
そこでは数々の残酷な事件が起こる。いじめも自殺も起こる。
 
同じ空間に閉じ込められているのが成熟した大人ばかりであったなら、悲劇はもう少しマイルドになっているだろう。
悲劇の原因は、大方が歪な自尊心によるものだからだ。
大人が必ずしも感情を制御できるとも限らないが、まあ子供よりはましだと思う。
 
「友達がいないのは損」どころの話ではなかった
 
学校の空間に縁がなくなってから数年が経ち、「友達があんまおらんこと」に頭を悩ませられることはなくなったかのように思われた。
その宛はある程度は正しい。
ただ、「友達がいなければなにもできない」というのは学校の中だけではない。
 
確か俺は、結構最近まで「学校みたいな特殊な環境にいなけりゃ友達いなくてもどうにでもなる」と思ってた。
なんという甘っちょろい考えだったのか。
日本において友達がいない人間やどこかに属していない人間は人権を持たないのである。
 
そりゃコネが必要になるほど大掛かりなことをやろうとするなら、人脈づくりは避けて通れんのだろうなとは俺もわかっていた。
しかし残念なことに、この世界はすごくしょーもないことにも他者との関係が必要になってくるのだ。
 
友達は量よりも質という言葉がある。言っていることは十分にわかる。知り合いが千人いてもその中の大半とは挨拶未満の交際しか出来ないだろう。
しかし、質を重視した人間関係を築こうとしたとき、結局立ちふさがるのは人脈の問題であったりもする。
 
人と人とが知り合うとき、当人以外の誰かを介しているというのは珍しくない。
ガチャというのは、よほど運が上向いていない限りは、当たりを引くまでに何度も挑み続けなければならない。
ソシャゲのガチャとは違って人間関係の場合、何をもって当たりとみなすのかは人それぞれだろうけど、その人にはその人なりの「当たり」の人間像があるものだと思われる。
分母が大きければ大きいほど、当たりに遭遇する可能性は高い。
 
悲しきことに、質を尊重するのだとしても、我々は多分「人とたくさん知り合う機会」から逃れることはできないのだろう。
俺のような人間にとってこれは地獄である。
俺は社交性も社会性も多分日本のワースト100には入っていると思われるので、現実に適応できずに寂しい生涯を送るのだろう。
 
俺たちは権威を持つか否かで他者をふるいにかける
 
そして、重要なことをもう一つ言いたい。
 
人が人を見るとき、何を見ているのか?
多くの場合、決して相手の本質を見ようとするのではない。本質を見ようとするのではなく、「周囲からどう評価されているのか」を見るのだ。
本質をつぶさに観察して人を理解するよりも、その方がコストが安い。
 
「人はいい商品ではなく売れている商品を買う」。
どこかで聞いたことがあるのではないか、もしくは漠然とそうお考えなのではないだろうか。
商品の価値というやつは、その分野に対して理解がなければ正しく判断することは難しい。だからよく知ってそうな人の言いなりになったり、右にならえをしてしまうのだ。
 
対象が人間であっても同じことが言える。
ただし、なまじ人間については誰もがわかった気になれてしまうので、よくわかっていないものをよくわかっているつもりになってしまいがちだという少し特殊な事情がある。
実際には人間は非常に難しい。分析しようとする相手の人間そのものが難しいということもあるが、その上人を分析したり分類しようとするときの自分の中にあるレッテルとかフィルターというエゴをうまく制御しなければならないからだ。
 
カミソリのような舌鋒を炸裂させてしまうと、人間関係を築く条件には、「地位があるか」「既にある程度の人間関係を持っているかどうか」が含まれる。
友人関係に置き換えるなら、友達を作ろうとした時点でそもそも友達の数が多いかどうかと、その友達の地位の高さ・能力の高さなどが当てはまるのだろう。
友達はある意味ステータスだ。
 
カミソリがどうだのと冗談を言ったが、みなさんもとっくの昔からお気づきでしょう。
人間は人間を少なくとも何割かはステータスで判断するのである。仕事、年収、学歴、教養、スキル、友達の質、友達の数。
これらの中には個人の資質も含まれているが、それらが評価されるのはその人の一面としてではなく、ステータスとしてであることがほとんどだ。
個人の資質に目を向けられ始めるのは、おそらく付き合いが長くなってからだ。
それも、長い付き合いになるためにはそもそも第一印象がよくなければならないというジレンマが発生している。
 
人間同士の交際はメリットの勘定と完全に切り分けて考えることは出来ない。
地位のあるものは地位のあるものしか相手にしない、地位のないもの同士は仕方なく地位のないもの同士で結びつく、という傾向は見られる。
立場の高い人間に相手にされたときは、同じ立場の人間と話すときより明らかに目の色が違う。
 
俺には金も地位もない。ただ、俺と仲良くしてくれる人間というのもいる。
俺は秀でていることが辛うじて少しだけあるのだが、それがもしなかったら、その人々にも俺が相手にされていたかどうかはわからない。
 
人と関われないことがもどかしくなり始めた
 
最近まで俺は別に友達が少ないということにさして不便を感じなかった。
それは、俺が殻に閉じこもり、自分の中で世界を完結させることができていたからだ。
 
俺は徹底的に「消費者」だった。歌と読書が趣味だが、歌や文章や小説を発表するわけではない。ただひたすら個人で楽しんでいた。
「なんかいい本ないかなあ」とか「いいバンドないかなあ」と思ったときに、共通の趣味を持った知人がいればもっとスムーズに情報が入ってくるのだろうな、ということを残念に思っていた程度だ。
 
しかし俺は重い腰を上げ、歌ってみたを投稿し、ブログを開始した。
消費者としての立場ではわからなかったことが、端くれも端くれではあるものの生産する側の立場に立ってみたことで、「少し世間と関わってみようかな」と思い始めたことで見えてきはじめた。
 
はっきり言って俺はそこそこ絶望している。
とにかく自分が誰の目にも留まらないし相手にされないのである。
これは学級生活で、二人組を作らなければならない場合などにぽつんと孤立していた気持ちに近い。
周りは楽しそうにしている。ただ俺だけが一人なのだ。
あの頃のことを冷静に考えると、俺は多分クラスメイトたちの自尊心を刺激してやれる要素を何も持ってなかったんだろう。
 
思うに、俺たち人間は一人でいることそのものには、あまりにも度が過ぎていなければそれなりに平気なのではないかと思う。
では何故孤独というものがこれほど精神を抉ってくるのか。それは世の中に楽しそうな人たちがたくさんいるのを見てしまうから、そして思い切って他者へ差し伸べた手に大した手応えを得られないからだろう。
最初から自分の世界に閉じこもっていれば、俺の場合はそこまで辛くはなかった。
 
被害者ぶるつもりはない。俺こそこれまで他人を黙殺し続けてきた。
他人とうまくいかないのは仲良くしようとする人を選んでいるからだ。
位の高い人間を狙うものの、向こうからすれば格下と見なした人間を相手にするメリットがない、だからうまくいかないということだ。
俺ら人間は誰もが自尊心のために、凄そうな人、華やかな人、気分を盛り上げてくれる人と友達になりたがっている。
 
そもそも俺は何故歌ってみたとブログを投稿したのか? について改めて考えた。
自分の殻に閉じこもっている限りはそれほど辛くもなかった、というのはこれまでに書いたとおりだ。
ただ、平気だとは言いつつも、インターネットに自分の一部を載せた動機は他者と関わりたかったからだという気がする。
「俺はすごいんだぜ」という自慢をしたかったつもりだったのだが、案外俺は人と関わりを持ちたかっただけのようだ。
しかし、おそらくそれも俺は自分のエゴを絡めて、誰と交際するか取捨選択するつもりだったのだろう。 
 
力を持たない人間が世界へ向かって何かを吠え立てたいというとき、その手段は限られているが、たしかに存在はする。
しかしその手段を行使したとしても、そもそも力を持っていなければ話にもならないようだ。
 
 
補足
そういえばコミュニケーションの能力について触れていなかった。
俺も多分これが致命的に欠けている。うまくいかないのはこちらも関係があるだろう。
ただ、このコミュニケーションの能力も「コミュ力っていうスキルを所持している」ことでの権威的っぽさと無関係ではないと思っているというのと、こちらについてはまた改めて別の機会に話したいということがあって、当記事では取り扱わないことにしておく。

俺はいつも空から何かが降ってくるのを待っている

更新ボタン連打の心理
 
ツイッターでもモバゲーでもmixiでもなんでもいいが、みなさんはタイムラインを表示したまま更新ボタンを連打された経験はないだろうか?
もしくは、YouTubeのホーム画面で、チャンネル登録している投稿者たちの更新がないか隅々まで探したことは?
それをブログに置き換えても、小説家になろうなどの創作投稿サイトに置き換えてもいい。
 
俺は基本的に365日、ほとんどそんな風にして過ごしている。
また、世の中のほとんどのインターネットユーザーが似たようなものか、もしくはYouTubeで動画なんて見ている時間や精神の余裕がないかのどちらかだろう。
(さすがに偏見か?)
 
我々人間のほとんどは消費>生産に偏った傾向を持つ。
つまり、俺たちのほとんどは人から褒め称えられる何かとか、社会に貢献する何かを生み出すことはなく、巷の食事だとかドラマだとか政策だとか一部の「生産する側の人」が作ったものを与えられ、そしてそれに「こうだ」とか「いや、こうだ」と感想を持つわけだ。
 
おそらく、「生産する側の人」は俺のように、ツイッターで更新ボタンを連打したりYouTubeの動画を血眼になって探したりはしてないだろう。
少なくとも俺よりその程度は遥かに低いはずだ。
彼らにはそんなことをしている暇も、必要もない。
生産することは、おそらく消費するだけの生活よりは俄然豊かだろうからだ。
 
そして消費と一口に言っても色々ある。
例えば、ベストセラーを探すことは容易いが、誰も知らない名書を探すのは非常に難しい。
俺は図書館で、気になった本に手当り次第少しずつ目を通して面白い本を探す、というのをやったことがあるけど、すぐに挫折した。
面白い本はたくさんあるのだが、たくさんありすぎて途方もなさすぎる。
 
しかし、こんなことを続けられてしまう人も世の中にはいるのだ。
それは、タイムラインで更新ボタンを連打している俺の消費とはまた違った、能動的な消費なのだろうと思う。
 
言ってしまえばいつもの俺は口をあけて親鳥から餌を与えられるのを待っているようなものだ。
「面白いことが起きないだろうか」といつも渇望しているが、そのためにとりたてて行動はしない。
タイムラインやホーム画面に奇跡が浮上するのをただ待っているだけ。
 
(生産する人は偉い、という論調に見えるかも知れない。確かにそうも思っているんだけど、俺は生産する人たちに「消費させられる」ことは搾取の一環だと思っているので、生産者より消費者は卑怯だとか、そういうことを言いたいのではない。この話はまた機会があれば)
 
空から運命の人が降って来てほしいという願望
 
こういった待ちの姿勢について考えを膨らませると、思い浮かんだのが、「空から女の子が降ってくる」というやつだ。
 
ラピュタでも緋弾のアリアでも何でもいい。
何ならFateでもドラえもんでもいい。
重要なのは、平凡な日常に輝かしさとか非日常が舞い込んでくるというモチーフだ。
 
特にボーイミーツガールというのは何よりも格好の題材だ。
「少女との出会い」と聞くだけで、何やら人生が特別になりそうな気がしてくる。
自分から何も行動をせずとも、何かが起こってくれそうな気がしてくる。
俺の惰弱さ故に、俺はボーイミーツガールというモチーフに惹かれてしまうんだろう。
 
しかし、俺たちは空から女の子が降ってくるわけなどないということを知っている。
だがツイッターYouTubeへの面白い投稿はありふれている。
我々が更新ボタンを連打しているのは、限りなく現実的なレベルまで希釈された「ボーイミーツガール願望」とでも言うべきものなのだろうな、ということだ。

不滅の友情神話は物理的な距離に敗北する

今週のお題「卒業」

 

俺が思うのは、物理的距離は心理的距離になりうるっていうことだ。
卒業式という事柄は、ことさら盛大に取り扱われる。それが別れを連想させるからだ。
 
しかし、俺たちはインターネット、スマホ、パソコンという最強の神器を手にしている。
本来、これらを駆使すれば昔のような「卒業」による物理的な距離は超越することができるはずだ。
世界中、どこにいたってツイッターだとかラインだとかでやりとりが出来るのだから。
仕事や学業の都合で引っ越したって、一見それほどの影響はないようにも見える。
 
にもかかわらず、数年も経てば連絡を取り合っているのは青春時代を共に過ごした仲間の中の一握りだ。
皮肉なことに、我々はあれほど「別れ」を惜しんでいたにも関わらず、いざそれを解消する手段を与えられてもその手段をさして使わなかった。
俺が中学高校の同級生で今でも連絡を取っている人間はかろうじて二人だ。
 
これは俺が社交的な人間でないから、というのもあるだろう。
俺が大して同級生たちに関心を持たれていなかった、浅い人間関係しか持たなかったからというのもあるだろう。
しかし、他にも重要な要因がある。
 
何故「友人」でいられるのか
 
我々がクラスの人間と友達になることができたのは何故だろう?
気が合ったからだろうか。それもある。
ただ、この世界の中で自分と気が合う人間というものは、周囲の友達以外にもどこかには存在しているかも知れないのに、我々はその人々と友達にはなっていない。
会ったこともないのに友達になれるわけがない、というのをおわかりいただけると思う。
 
つまり、友人という関係になるには、まずお互いの存在を認知する必要がある。
目の届くところにいなければならない。
必ずしも、「気が合うかどうか」が最も重要ではないのだ。
 
では、一度顔を合わせたらもうその後は接触しなくてもいいのか?
そんなわけはない。これもおわかりだと思う。
顔を合わせなければ、その相手の人物の印象は、どんどん頭の中で薄れていく。
有り体に言えばどうでもよくなっていく。
 
先述の通り、俺は中学校高校の同級生のほとんどの消息を知らない。
高校に関しては友達はほぼいないようなものだったが(3日に1回くらいは学校で誰とも喋らなかった)、中学はまあ普通といったところだ。
クラスメイトの中のほぼ全員と喋っていた(女子を除く。女子とは年間通してほぼ喋らなかった)ので、まー異論はあるだろうが、俺は今は連絡を取っていない彼らとも友達のつもりであった。
しかしそれが卒業を堺に、その中のほとんどとの関係が途絶えたのだった。しばらく連絡を取っていた人物とも徐々に疎遠になった。
 
嫌でも顔を合わせる機会の必要
 
今から思うに、俺が彼らと友達だったのは、「毎日顔を合わせる機会があったから」だ。
気が合っただとかどうだとかいうのは二の次に過ぎない。むしろお互いのイデオロギーなんかを赤裸々に暴露し合ったとしたら対立していたと思う。
 
俺たちの友情っていうのは、あくまで朝8時半までに登校して、夕方の4時か5時くらいに帰る。その場所とルーティンによって成り立っていた。
たまに同窓会なんかで集まったりするんだろうけど、そんな行事を催して無理やり集まったとしても、そのときに「懐かしいなあ!」と盛り上がったり、余韻に浸るきっかけができるだけで、復縁するということはおそらくあんまり考えられない。
 
辛うじて連絡を取る人間が二人いると書いた。
これも厳密に言えば一人なのかな、というところで、それは何故かというと、二人というよりは「一人を介したもう一人」だからだ。
なので、そいつがいなければ俺が連絡を取っている元同級生は0人と言っていい。
 
最近、その人物は就職先の都合で引っ越した。そいつを介したもうひとりの方も引っ越した。
ラインのやりとりのレスポンスは、徐々に遅くなっているように思う。
 
これを見ている方に言いたいことがひとつある。
手放したくない人間関係があるなら、頑張ってその人の視界に入るようにしましょう。
なるべくこまめに話しかけましょう。
人間は会うきっかけがないと簡単に疎遠になります。
 
それでもあちらはこちらに興味を持ってくれないかも知れません。
昔ではなく今の人間関係に夢中なのでしょう。
残念ですが、人と人とはそういうもののようです。
 
インターネットの住人からでした。
(この挨拶後で恥ずかしくなりそうだな)

この動画黄金時代にブログをはじめるということ

ツイッターをやっている。
このブログと連携しているアカウントと、もう一つアカウントを持っている。
そこでも「書く」ということはできる。
ただ、ツイッターはあまり表現という分野には適していない。
友達がほぼ確実に見るところで自分をさらけ出すのは恥ずかしいとか、140字で書けることになんて限りがあるよなとか、フォロワーが誰も興味ないことを連投しても鬱陶しいよなとか、厄介な障壁があるからだ。
 
しかし、ブログであればこれらの条件をクリアした上で書きたいことを書くことができる。
ならば何故今まで着手しなかったのかというと、一つは単に面倒だったからというのがあるんだけど、もうひとつは、現代は「動画の時代」だからだ。
 
 

動画の時代

 
YouTubeが持つ数字は恐ろしい。
ニコニコ動画の全盛期を平気で追い越している。
 
しかし、YouTubeが数字を持つということは、他のコンテンツはその分だけ数字を持っていないということだ。
人間の個体数と、人間ひとりひとりに与えられる時間には1日24時間と限りがあるからだ。
 
俺が言うまでもなくこのようなことはお気づきだろうとは思うけど、このYouTube・動画の時代に、ブログだとか文筆だとか(おまけに俺は超後発組の新規参入)などというものは死に体だ。
動画を撮影するのも視聴するのも誰にでもできる時代の中で、一番割を食うというか一番廃れていくのは、(もしかしたら違うのかもしれないけど)おそらく活字や文章だろう。
ツイッターやラインというものはその範疇から除外するものとする。
 
そして活字が廃れていくのは二通りの意味があると思っていて、それは、動画・映像の方が受け手にストレスとか読解力とか意気込みとかの障壁を必要としないことと、もうひとつ、「エンターテイメント>学び・思想・問題提起など」の偏重が強まるだろうということだ。
YouTubeで伸びる動画の条件というのを、ひとつだけあげるとするなら、見ていればわかる。
「視聴後にスカッとする」ことだ。
 
YouTubeにも比較的教育的というか、学びを取り扱ったチャンネルというのはいくつも存在しているけど、その中で伸びているチャンネルや動画にはふんだんにエンターテイメントの要素が盛り込まれている。
「見るとスカッとする」という範疇を必ず外していない。
「これを知るだけで人生がよくなる」ライフハックのようなものとか、大衆愚を蔑んで爽快な気持ちを煽るといったように、あまり複雑に考える必要のないものが基本的に数字を伸ばしている。
 
一応言っておくが、俺はYouTubeは視聴しまくっているので、俺も他人事ではない。
(MSSP大好き)
 
しかし、エンタメに対して「考える」ということはそれほど爽快なものではない。
「考えさせる」ということを提供したところで、これからの時代、それらが支持される望みというのは限りなく少ないのだ。
それが文章であろうが動画であろうがおそらくは同じことで、熟考しなければ読解したり今後に生きないものはそうそう伸びない。
 
そして文章とか小説というものには何故だか「胸にしこりを残す」とか「よくない展開を予感させる」という特性があって、これは多分YouTubeの時代にはそぐわない性質なのだろうと思う。
 
 

では何故今ブログを?

 
俺は強い意思をもってこの世界に参入するのではなく、「本当に大丈夫かな」という不安が強い。
(そしておそらく本当に大丈夫ではない)
「動画時代のブログ」としても見向きもされないだろうし、「ブログの中の超後発組」としても見向きもされないはずである。
 
でも俺には自分が死ぬまでに自分が感じ取ったことを人に見える場所に残しておきたいという気持ちがある。
多分、それは人間が遺伝子を残そうとする本能に近い。
俺は遺伝子ではなく、表現という形で世の中に自分を残したいと思った。
 
そして、それに動画ではなくブログという形態を選択したのは、動画黄金時代の文化に逆行したかったからだ。
 
反旗を翻す、というほどのことでもない。
活字や文章にも居場所が残っていてほしいという淡い願いに過ぎない。
 
(繰り返すが、俺はYouTubeの視聴者である。これはYouTubeとか視聴者への批判とも受け取ることはできるけど、その矛先は俺自身にも向かう)
 
俺には俺の何かを見てくれる人に、笑ってすかっとして欲しいという気持ちと、何か考えるきっかけや単純ではない共感を与えたいという、相反するふたつの気持ちがある。
「笑いをとりたい」ということに関しては今後またどうするのか考えるとして、今回はとにかく後者に焦点を絞った。
 
なおかつ、俺はとにかく文章の持つ陰鬱な雰囲気というものにたまらなく惹かれているので、ブログをやってみようかなと思った。
鬱々とYouTubeで話すということも考えたが、とりあえずはブログをやることにする。
 
それでは、今後ともよしなに。