フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

ロジックにぶちのめされた俺達の理想の異性像

 
 
その昔、俺の異性への関心はアニメだとか漫画だとかの登場人物へ向かっていた。
その対象は別に芸能人でもよかったはずなのだが、俺の友達に芸能人の話で盛り上がるタイプが少なかったのと、月曜9時などのキラキラした世界に馴染めなかったことで、俺がアイドルの追っかけなどになることはなかった。
 
男であろうが女であろうが、異性を巡る問題というのはとても繊細だ。
特にオタクだとかアイドルのファンだといったものは異性への幻想が強すぎるあまりに、周囲の男性女性たちでは欠点が目についてしまって受け入れられないきらいがある。
だからこそ欠点が目に入らない、その上長所が装飾され尽くしたアニメキャラやアイドルを崇拝するようになる。
 
俺たちは綾波レイだとか櫻井翔なんかに(この両者を並立させることはオタクとジャニーズファンの両方から大ひんしゅくを買いそうだ)交際相手が存在したとしたらそれを許容できないだろうし、許容できたとしても大きな痛手を負うことになるだろう。
 
俺もエロゲの登場人物などに男の影があるかどうかなどで一喜一憂していた。
このあたりのオタク文化というのは基本的に客には夢を見させる方針で成り立っているが、そんな文化だからこそ殻に引きこもっているオタクたちへが抱く幻想へのアンチテーゼを内包した作品も生まれる。
俺はそこでものの見事にボコボコにされて帰ってきた。
 
そういった経験をするうちに、俺は二次元の少女というものに熱狂できなくなっていた。
我々男性の理想を絵に描いたようなキャラクターが現れても「もっと社会的地位の高い男がいたらそいつと付き合うでしょ」と思うようになったし、そもそも「いや、フィクションだし」とも思うようになった(オタクたちへの侮蔑として「現実見ろよ」というのはよく言われていたが、パーティピープルだろうがオタクだろうが幻想から脱却できている人間なんてほとんどいない。アニメを見ていなければ現実を見ているなどというのは大きな間違いだ。幻想から脱却するということは非常に難しい)。
 
オタク文化へ逃げ込むスタンスというのはふたつ考えられる。
それは「現実と理想を混同したまま理想へ逃げ込む」ってことと、「理想と現実を切り離しているが、つかの間の安らぎを求めて逃げ込む」の2つだ。ただ、この2つが峻別できるかというと、そうでもないような気がする。前者でも「うすうす僕が馬鹿馬鹿しいことをしているのはわかってますよ」ということもあるだろうし、後者が現実に理想を一切持ち込んでいないと断言することはできない。
 
いずれにせよ、オタク属性の人間は現実で願望を叶えられないから、それを架空の世界で叶えることを望んだのだ。こういう人たちは馬鹿にされがちだが、俺は有効な精神安定剤になりえると思うし、先ほども言ったがこんなことはオタク以外もやっている。
 
宗教の衰退と理想の異性像
 
しかし、ロジックを追求すれば必ず神は滅びる。
神は様々な形態をとってきた。そして神は必ずしもGODである必要はなく、人が我が身の安寧のために作り上げた幻想はそれだけで神足り得る。ヤハウェだろうがアニメキャラだろうがアイドルだろうが同じだ。
 
しかし論理が重視され、文明が洗練されてくると、神は力を失っていく。現代のキリスト教にかつてほどの力は残っていない。
このことはアニメキャラやアイドルにも起こりうると俺は思う。例えば、アイドルが排泄しないという幻想は容易に論破される。この程度であれば誰でもわかっていることだ。
そこで、ある漫画の中でお互いを唯一無二の異性だと信じている主人公とヒロインがいたとしよう。これは漫画なので、どれだけ都合のいいことを言ってもいい。現実の離婚率が何%であっても、この物語はフィクションであり実在の人物とは関係がない。
 
しかし、「何故現実のカップルのほとんどが別れるのか」について考えたとき、「これはフィクションだから」で済ませることはできない。神は死ぬ。
科学というのはつまり「このようなときにこうすれば必ずこうなります」ということだ。何故カップルが別れるのかだとか、人は異性にどういうときに惹かれるのかについて科学的に解明されている物事がどれくらいあるのかは知らないが、解明されていようがいまいが「つがい」の発生する傾向だとか法則は俺たちの文明の中に存在しているはずだ。
 
ここまで考えを巡らせれば、俺たちがかつて崇拝していたキャラクターは女神になどなりえないとおのずとわかってくる。「主人公と交際したのはあくまで条件が重なったから」。「主人公と別れていないのはまだ条件が訪れていないから」。「これまで主人公以外と交際していなかったのはたまたま条件が訪れていなかったから」。これらのことが見えてくる。
 
今ではコテコテの理想像であればあるほどわざとらしい女神像っぽくて白けてくる。女性を眺めているというよりは特定の出来事に特定のフィードバックをするプログラムを眺めているような気分である。
しかし、かといって現実の女性と関われるような気概を持てたかと言うと、いや、まったくです。
 
若い時間が短かったような気分がする
 
リンク先の、シロクマさんによるオタクや元オタクたちに深い示唆を与えてくれる記事では、二次元のキャラを眺めるときの目線が保護者的になったというようなことをおっしゃられている。
俺はシロクマさんよりもかなり若輩だが、もう既に気持ちがこういった方向へシフトしつつある。(もちろんシロクマさんほど俺が成熟しているなどとは口が裂けても言えない)。
これは見方によっては成熟だとも言えるのかも知れないが、俺は安堵するよりも遥かに恐ろしい。
 
それは若さを失いつつあるということだろうからだ。精神が若々しくなければ出来ないことがあると俺は思っていて、それをやる機会がもうじき失われるのだろうと予感させられる。おまけに俺は怠惰なので若ければ出来ないことというのは人生でほとんどやったことがない。
しかも理想よりも現実を以前よりも見られるようになったからといって、いいことは今のところ特にない。
 
このような観点からも、理想の異性像に熱狂できるということは羨ましくもあるのだった。
かわいいアニメのキャラを見ても「いや、どうせ状況次第でイケメンや金持ちとちょめちょめなのだろうししかしまあそれも人間なのだから仕方ないだろう」などと考えてしまう俺はおっさんである。