フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

不滅の友情神話は物理的な距離に敗北する

今週のお題「卒業」

 

俺が思うのは、物理的距離は心理的距離になりうるっていうことだ。
卒業式という事柄は、ことさら盛大に取り扱われる。それが別れを連想させるからだ。
 
しかし、俺たちはインターネット、スマホ、パソコンという最強の神器を手にしている。
本来、これらを駆使すれば昔のような「卒業」による物理的な距離は超越することができるはずだ。
世界中、どこにいたってツイッターだとかラインだとかでやりとりが出来るのだから。
仕事や学業の都合で引っ越したって、一見それほどの影響はないようにも見える。
 
にもかかわらず、数年も経てば連絡を取り合っているのは青春時代を共に過ごした仲間の中の一握りだ。
皮肉なことに、我々はあれほど「別れ」を惜しんでいたにも関わらず、いざそれを解消する手段を与えられてもその手段をさして使わなかった。
俺が中学高校の同級生で今でも連絡を取っている人間はかろうじて二人だ。
 
これは俺が社交的な人間でないから、というのもあるだろう。
俺が大して同級生たちに関心を持たれていなかった、浅い人間関係しか持たなかったからというのもあるだろう。
しかし、他にも重要な要因がある。
 
何故「友人」でいられるのか
 
我々がクラスの人間と友達になることができたのは何故だろう?
気が合ったからだろうか。それもある。
ただ、この世界の中で自分と気が合う人間というものは、周囲の友達以外にもどこかには存在しているかも知れないのに、我々はその人々と友達にはなっていない。
会ったこともないのに友達になれるわけがない、というのをおわかりいただけると思う。
 
つまり、友人という関係になるには、まずお互いの存在を認知する必要がある。
目の届くところにいなければならない。
必ずしも、「気が合うかどうか」が最も重要ではないのだ。
 
では、一度顔を合わせたらもうその後は接触しなくてもいいのか?
そんなわけはない。これもおわかりだと思う。
顔を合わせなければ、その相手の人物の印象は、どんどん頭の中で薄れていく。
有り体に言えばどうでもよくなっていく。
 
先述の通り、俺は中学校高校の同級生のほとんどの消息を知らない。
高校に関しては友達はほぼいないようなものだったが(3日に1回くらいは学校で誰とも喋らなかった)、中学はまあ普通といったところだ。
クラスメイトの中のほぼ全員と喋っていた(女子を除く。女子とは年間通してほぼ喋らなかった)ので、まー異論はあるだろうが、俺は今は連絡を取っていない彼らとも友達のつもりであった。
しかしそれが卒業を堺に、その中のほとんどとの関係が途絶えたのだった。しばらく連絡を取っていた人物とも徐々に疎遠になった。
 
嫌でも顔を合わせる機会の必要
 
今から思うに、俺が彼らと友達だったのは、「毎日顔を合わせる機会があったから」だ。
気が合っただとかどうだとかいうのは二の次に過ぎない。むしろお互いのイデオロギーなんかを赤裸々に暴露し合ったとしたら対立していたと思う。
 
俺たちの友情っていうのは、あくまで朝8時半までに登校して、夕方の4時か5時くらいに帰る。その場所とルーティンによって成り立っていた。
たまに同窓会なんかで集まったりするんだろうけど、そんな行事を催して無理やり集まったとしても、そのときに「懐かしいなあ!」と盛り上がったり、余韻に浸るきっかけができるだけで、復縁するということはおそらくあんまり考えられない。
 
辛うじて連絡を取る人間が二人いると書いた。
これも厳密に言えば一人なのかな、というところで、それは何故かというと、二人というよりは「一人を介したもう一人」だからだ。
なので、そいつがいなければ俺が連絡を取っている元同級生は0人と言っていい。
 
最近、その人物は就職先の都合で引っ越した。そいつを介したもうひとりの方も引っ越した。
ラインのやりとりのレスポンスは、徐々に遅くなっているように思う。
 
これを見ている方に言いたいことがひとつある。
手放したくない人間関係があるなら、頑張ってその人の視界に入るようにしましょう。
なるべくこまめに話しかけましょう。
人間は会うきっかけがないと簡単に疎遠になります。
 
それでもあちらはこちらに興味を持ってくれないかも知れません。
昔ではなく今の人間関係に夢中なのでしょう。
残念ですが、人と人とはそういうもののようです。
 
インターネットの住人からでした。
(この挨拶後で恥ずかしくなりそうだな)