フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

未来を求める俺たちに郷愁を感じる資格はあるのか?

今日俺は意味のわからない夢を見た。
どんな内容だったか言語化するのを馬鹿馬鹿しくなるほど支離滅裂な夢だったが、それは過去へと記憶を遡らせるきっかけをもたらした。
夢というのは郷愁と固く結びついている。内容の論理が破綻していても、その中に懐かしいと思わせる何かが散りばめられていることは珍しくない。
学校生活をしていた頃の同級生や、懐かしの場所もどきだとか、あるいはまったく自分とは関係のないことなのに何故だかそれに懐かしさを覚えることもある。
 
夢には母親が昔の姿で現れた。
当たり前だが、母親っていうのは老いていって大抵の場合子供よりも先に死ぬ。「若い頃の母親」という像は、懐かしさの対象であり、なおかつ死を予期させない巨大な幻想だ。
俺はまだ経験したことはないが、母親が死ぬということはおそらく人生の中で一番苦しい出来事となるのだろう。
 
現代では必ずしもそうではないかも知れない。
それは現代の若者の精神がささくれ立っていて「親などどうでもいい」というマインドであるのが珍しくないということもそうだし、母親が母親の役割を果たさない時代になってきているからということでもあるだろう。
俺も「別にこいつが死んでもいいな」と母親に対して思っていた時期がある。振り返ってみれば非常に恐ろしいのだが。
 
俺の母親はかつてヒステリックな人間で、何かの拍子に激昂していて俺はそれが駄目だったのだが、服薬している抗うつ剤とか睡眠薬の影響なのか、最近は態度が以前よりも遥かに丸い。
ただ丸くなっただけなら一安心だ。それは多分、精神を苛んできた不安の原因が取り除かれたか改善されたということだろう。ただ、俺の母親はあくまで薬によってそれらを抑え込んでいるだけだ。
 
俺の祖母は認知症だったのだが、認知症の祖母と最近の母親が重なるようになってきた。
頭の回転が遅くなっているし、喋っているのを聞いていても話の中身が見えてこない。意思の疎通が取りづらい。
母親の肉体的な死よりも先に精神的な死を予感させる。
俺が夢の中の若い母親に見たのは、「死なない母親」と「精神が健康な母親」の幻想だ。
 
俺は今母親に若返ってほしいという願望を持っているのだと思うが、以前は真逆に「もっとおとなしくなれ」とかひどいときには「死ね」と思っていた。
完璧に言っていることが逆転している。虫のいい話だ。
案外死んだら死んだで悲しむのかもしれないなとは昔も思っていたが。
 
現状で満足しようとしない俺たち
 
俺たちは未来へ向かって「もっといい状態」を求めようとする。しかし未来を求めるということは、過去を置き去りにすることと不可分だ。
そして俺たちは未来へたどり着くと今度は戯れに「あの頃へ戻りたい」と言い始める。多分、過去へ戻ることが出来たとしてもそこに俺たちの理想はないのだが。だからこそ俺は母親の件に限らず、あの頃未来を求めていたのだから。
 
くだらないエピソードだが、たとえばこういうのもある。
俺はかつてPSO2というオンラインゲームにのめりこんでいたのだが、飽きたとかモチベーションが枯れたとか新規コンテンツについていけないとか他にやりたいことがあったということを言い訳にやめてそれきりだ。確か2015年中のことだった。
それから4年以上が過ぎて、今やあの頃のことは懐かしい思い出となりつつあり、少しばかり昔に戻りたいと空想することがある。「あの人ともっと仲良くなっておけばよかったなあ」とかそういうちょっとした後悔もある。
 
しかし、俺はオンラインゲームをやめることに理があると判断してやめたのだ。俺はあくまで自らの意思でその過去を踏みにじったのである。
そして勝手にも自分が捨てた過去に対して俺は未練を感じている。
 
かと言って、一切未来を模索せず過去と現在に縋り付いていたところで、人は緩やかに滅んでいくだけだろう。
俺たちが停滞している間に周囲の環境も人間も先へ進んでいく。俺たちはとにかく取り残されることを恐れる。未来からも、未来のもたらす焦りからも逃れることはできない。