フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

道は犠牲で出来ている アスファルトは涙でサービスは吐瀉物

町中は悲しみで出来ているが、俺達はいつもそれを素通りしている。
 
月に数回くらい通っている道路沿いに駐車場が出来た。
俺はそこでの工事の様子を何回か見たことがある。
 
50後半か60くらいのおっちゃんに、20ちょっとくらいのにーちゃんがどやされていた。
「人として最低だなお前!!」とそのにーちゃんは罵倒されていたのだが、おっちゃんが極度に過激に物事を捉えるのか口が悪かったのか、本当にあのにーちゃんが人として常軌を逸してたのかはわからない。
 
俺はその光景に対し、勝手にパワーハラスメントという定義を当てはめたのだが、事実がどうだったのかは確かめようがない。
全ては俺の想像だ。
 
単発のアルバイトで現場監督っぽい人に怒られまくったことがある。
そのときは俺が駄目すぎたのとその人の口が悪かったのが5:5と言ったところだろう。
あのおばさんが所構わず当たり散らしていたのも事実だが、俺が明らかに足を引っ張っていたのもまた事実だ。
 
それからというもの、その場所と似たような町並みだとか職場を目にしたとき、途方もなくやるせない気分に支配されるようになった。
社会不適合者である自分の実態をまざまざと浮き上がらされるからだ。
 
さらにそこから想像が膨らみ、今は街中全体、なんなら世界全体に対して虚無感の対象が広がった。
どこを歩いていても「本当に俺はここにいてもいいのか?」と思っている。
 
それは俺が自分が適合できそうにない場所にいることに不安を覚えるということもでもあるが、同時に「誰かの苦労の上を漫然と踏みにじっていいのだろうか」ということでもある。
俺が今まで尻目に見てきた場所では、誰かが圧倒的なストレスに晒されてきたはずだ。
俺が今これを打っている百貨店にも負のエピソードがあるんだろう。
 
ただ、俺たちは「いびられる部下といびる上司」という情景から、どうしても上司が悪だというイメージを作り上げがちだが、必ずしもそうとは言えないのではないだろうかと最近は考えている。
 
何故なら、ストレスは得てして循環するからだ。
わかりやすい逸話だと、虐待された子供は将来我が子を虐待しやすくなるというように。
(俺はこの話の統計とか科学的なソースについては知らないのだが、まあそういうものだろうと思っている)
 
俺たちは当然のように虐待やハラスメントが悪だと言ってきた。
だがそれらを断罪する俺たち、もしくは被害者であった俺たちが、今後どこかで誰かを傷つけないとも限らない。
むしろ既に横暴さで人を振り回していないとも限らない。
「やな上司」「クソ客」がどんな過去を持っているのかも俺たちにはわからない。
 
かくいう俺はもう既に腐るほど罪を犯している。
 
世界は誰かの犠牲で出来ている
 
ジョージアのCMは極めて情緒的だ。
「世界は誰かの仕事で出来ている」。
表舞台に立たない数多くの凡人たちの尊厳というものを最大限称賛した優れたキャッチフレーズだ。
 
ただ、それではまだ足りないと思う。
世界中のサービスや設備や商品は誰かの仕事で出来ているが、そしてさらにその陰には使い潰される労働者の姿がある。
俺たちは人々の努力や創意工夫の上だけで生活しているのではない。便利な生活とは、確実に誰かの精神を刈り取って成長している。
いたぶり、いたぶられるという負の連鎖に言及し、踏み込まなければ、人間の尊厳は掬い上げられないのではないだろうか。
 
しかしそこに善悪の二元論を持ち込んでしまえば、俺たちはたちまち数の暴力だとか権力だとかによってただ不快なものを排斥しようとするようになるだろう。
上司が陰湿に部下をなじるのと、クソ上司の歪なメンタルを分析して徹底的に非難するのは、多分そんなに変わらない。
被害者を守って加害者を糾弾するのは一見正義に近しいように映るが、どちらも人間のサディスティックな衝動の為せる技だ。
俺たちが悪人を罵倒している内は、悪人はこの世界から消えない。
でもまあ人間がサディスティックな衝動を感じないようになるのは無理だろうから、世の中はずっとこのままだろう。
 
だからこそ一層世の中は無情だ。
俺たちはどれだけどうしようもない目に遭おうとも、そこへ善悪を持ち込んで自分を慰めることすら許されない。
やろうと思えば出来なくはないが、それは致命的に的が外れているか、自分へ跳ね返ってくるのだ。