フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

友達を求めてるのかアイドルを求めてるのかっていう齟齬があると思うんです

「昔は好きだったけど、有名になっちゃったから今は好きじゃない」と誰かが言っているのを一度は聞いたことがあると思うが、実際にこういった体験をされた方は限られているのではないだろうか。
何故かと言うと、俺たちの知っている物事のほとんどは既に有名だからだ。俺たちの視界に入ってくるのは既に名を馳せたものばかりだ。テレビだろうがネットだろうが、目立つ部分を飾っているのは有名な人物である。
 
そして、有名でない物事を知る機会はごく限りないし、その上俺たちは往々にして「どれだけ人に評価されているか」を元にして対象の価値を決めてかかる。よって俺たちがそれらを愛好することは少ない。
このような機会がありふれている人というのは、おそらく一部のマニアの人たちだろうと思う。
 
俺は人生でただ一度だけ、たまたま好きだった・応援していた人物が有名になったという経験がある。
ゲーム実況動画を動画投稿サイトにアップロードしている人だ。
今回の記事はゲーム実況者と呼ばれる人たちをクローズアップする内容ではないが、今回俺が書きたい内容と「インターネットで何かやってる人」との相性がよかったので、それをあえて明かした。
 
昔俺が彼を見ていた頃は、各動画の平均再生数が多分1000回くらい、生放送の配信は30分でコメントが10個もついていなかった。
(冷静に考えれば毎回1000再生とっていたのは十分すごいのだが)
そして現在、拠点がニコニコ動画からYouTubeへ移ったので単純な比較はできないが、チャンネル登録者数10万人、平均動画再生数は2~3万くらい、ライブ配信は毎回1000人は来ている(コメントは数えられないが秒速で流れていく)。
 
YouTubeでのチャンネル登録者数について、10万人というのを少なく感じられる方もいらっしゃるかも知れないが、このあたりはYouTubeの収益だけで食べていけるようになるラインとされている。(俺の聞いた限り。ただゲーム実況は収益の単価が低めらしいので彼がそれに該当するのかどうかはわからないかも)
 
「有名じゃない人」が好きな人は友達を求めている
 
前置きが長くなったが、「有名になった前と後のファンの態度について」だ。
このことは度々議論を呼ぶ。
「あの頃と変わっちゃった。もう見ない」。
「有名になったから応援しなくなるなんて本当のファンじゃない」、など。
 
思うに、本来は議論の必要はないと思う。
無名な人を好きになるのと、有名な人を好きになるのは、大別すれば根本的に動機が違うだろうからだ。
もっと言葉の範囲を狭めてYouTubeやゲーム実況の世界でいうと、わざわざ有名で賑やかな配信を素通りして過疎っている生放送や動画へ遊びに行く人が一定数いる。
 
俺たちが幼い頃から身近にはテレビが存在したわけだが(なかった世代の方はすみません)、テレビの住人たちは決して俺たちの手が届かない存在だった。YouTubeに動画を投稿するのに試験をパスする必要はないが、テレビに出演するにはとても厳しい審査や試験が必要だったはずだ。それを乗り越え、選びぬかれた「超優秀な人々」「運にめちゃくちゃ恵まれた人」「滅茶苦茶頑張った人」だけがテレビにはいた。
 
彼らスターに俺たちの相手をしている時間はないし、テレビとはそもそも一方通行のメディアだ。見ているだけの俺たちと芸能人の間には何もない。
 
ネットで「アイドル」と「友達」の真ん中みたいな人が現れるようになった
 
やがてインターネットが勃興し、動画投稿者だとか生主だとかいうのが生まれた。
彼らは卓越したセンスだとか話術を持ってはいるが、芸能人ほど厳しさに揉まれてはいないだろう(人前でなにかを披露するということにおいて)。
しかし、彼らインターネットでの活動者は無限にいるから、少なくともテレビほどは限られた一部分に視聴者が殺到するということはない。インターネットのキャパシティは、テレビとは違ってほとんど無限大だからだ。テレビは10個くらいしかないチャンネルで、同じ時間帯に一つの番組しか放送することが出来ない。
 
そして、なによりもインターネットは双方向のメディアだった。
俺たちは動画にコメントを送ることができ、動画投稿者や生主はそれらを閲覧することができる。それに反応もしてくれる。
それは、街中でたまたま見かけた芸能人に握手してもらって、少しだけ会話してそれっきり、というのとは全く違う。
 
芸能人はどこまで行ってもテレビの向こうの人だが、動画投稿者とは友達になれる余地がある。
 
ここで問題になるのが、有名無名のいざこざだ。
動画投稿者や生主であっても、てっぺんまで上り詰めた人はもう芸能人に相違ない。彼らに「友達」を求めていた人の望みは、有名になってしまった彼らにはもう叶えられないのだ。
 
有名な人は無名な人の上位互換ではない
 
芸能人やトップ層の動画投稿者が好きな人は、友達を求めるよりもどちらかというとアイドルの存在を求めている人たちだろう。
ただ、両者がそんなにすっぱり分かれるとは限らない。
0が友達志向、100がアイドル志向だとして、20の人もいるだろうし、89くらいの人もいるだろう。何なら、0と100をそのまま兼ね備えている欲張りさんもいるかも知れない。
 
俺もやはり、無名な頃から知っている人を、有名になってしまった今、同じ目で見ることはできない。
ただ、俺は動画にコメントをする習慣というのはあまりなくて、さっき言った動画投稿者の人とコミュニケーションをとったことはそんなにないから、以前友達レベルの付き合いがあった人たちほど切実な気持ちではないと思う。
現に俺は今でもその人の動画見てるし。ただ、昔はたまにしてたコメントの数は0になった。
 
あるゲーム実況者の一角で(多分)もっとも高い再生数のアベレージを取っている人(Bさんとしましょう)が言っていた。
「全然僕が有名じゃなかったときから応援してくれてた人、名前も覚えてます。有名になったから見るのやめるっていう人いますけど……僕らは全然軽んじてなんかないのに、残念ですね」
 
俺は、覚えてもらえているだけでは足りないんじゃないかと思う。
最早今のBさんとかつての視聴者にコミュニケーションが成立する機会はあまり現れないだろう。Bさんは忙しい。昔の視聴者を、思い出の人だからといって立場上贔屓もできない。
 
しかし、Bさんの言葉もまた痛切だ。
有名になってしまったとき、友達を失うのは、芸能人や動画投稿者も視聴者も同じなのだろう。
 
 
補足
少し補足をしておきます。
芸能人を大スターとして一括にしましたが、もちろん必ずしもそうではありません。
「ファンレターが返ってくるので、ジャニーズよりジャニーズJr.を応援したい」という人もいるらしいです。
 
それから、「アイドル」という言葉をかなりざっくりと使用しました。
これは「ステージの上で歌って踊る人たち」などの狭義の意味ではないです。「可愛らしい」とか「若々しい」などの意味でもないです。
本文中においては、たとえばヒカキンさんもアイドルに該当します。

【追記あり】歌い手の世界は厳しいって話【最後の方でおすすめ歌い手掲載してます】

追記 2020年4月14日
 
やはり、考察に甘いところがあった。
むしろ2015年は最盛期ですらあったと言えるのかも知れないらしいです。
 
 
また、リンク先の記事を参照する限り、ニコニコ動画全体は衰退の一途を辿っているのは間違いありませんが、「歌ってみた」カテゴリにおいて、大きな数字の推移はないように見えます。グラフでは見えないところの変動がないとも言えませんが。
では、以下が本文になります。
 
 
一個目の歌ってみた動画を投稿して一ヶ月くらい経った。
俺はこれまで歌ってみただとかボカロを取り巻く世界のことを、ごく表面的な部分を漠然と眺めたことはあってもその細部まで目を向けたことはなかった。
 
このカテゴリーに限らず、動画投稿者が成り上がっていくことが困難だということは端から承知の上だったが、全体像をうっすらと知っているのとディティールがある程度わかるのとでは、やはり受け止め方が違ってくる。
  

ニコ動・歌ってみたがオワコンって言われ始めてから長い

振り返ると2015年当時はまだ一大コンテンツの地位にあった 
俺がボカロや歌ってみたをざっくり聴き始めたのは確か2015年のことだ。
当時から既に「ニコニコオワコン」「ボカロオワコン」「歌ってみたオワコン」などと嘯かれていて、俺もそうだなあとあまり考えず納得していたのだが、今から振り返ればまだ十分に当時は盛り上がっていたよなと思う。
 
なんといっても、ニコニコ動画の歌ってみた動画の中で2番目に再生回数が多いのは2015年に投稿された動画だ。
その動画のことは投稿後2ヶ月くらいから知っているが、まさかここまで伸びるとは思わなかった。
ちなみに今は1000万再生を優に超えている。
 
2015年当時、「新人の歌い手はどのくらい注目されるのだろう?」と思って、新着の歌ってみた動画を少し漁ったことがある。
 
かなり独断と偏見の交じる話になるが、俺の基準で「カラオケレベルで結構うまいかな」と思った人が1000再生くらいをとっていた。
当時俺は「これなら自分が参入しても多少なら注目してもらえるか?」と思ったものだった。
(ただ、俺はツイッターなどのフォロワー数による拡散力を過小評価していたので、この見立てにはそもそも穴があると思う)
 
しかし現在は本当に深刻である
故あって俺は2015年当時は歌ってみたに参入しなかったのだが、今になって参入した。
そこでニコニコ動画だとか歌ってみただとかの近況について探ってみたのだが、そこで俺は驚愕したのだった。下火って言われてた4、5年前よりもニコニコ動画は遥かに廃れきっていたからだ。
 
廃れていくことそのものは自明の理だった。それは2015年当時に「これからさらに人が離れていくぞ」と言われまくってたこともそうだし、栄枯盛衰が自然の摂理だからだ。
ただなんというか、俺が底だと思っていた部分よりも深層にはまだまだ空間が広がっていたことに気づいた、といったところだろうか。
 

歌ってみた 再生数の低迷

 
これも独断と偏見の話が存分に入り交じるが、俺の感覚で「あんたどっかでプロとしてやってんじゃないの?」という人のアベレージが200再生くらいということもざらだ。
SNSで少し注目されている人でさえそのくらいだから、歌唱力だけで取れる数字はそれをさらに下回るだろう。
 (ていうか冷静に考えれば200回も動画を開いてもらえてるってかなりすごいことなんだけど、俺達の感覚は成功者たちによって麻痺している)
ニコニコ社会ととYouTube社会の違い
以上はニコニコ動画での話だから、現在の動画投稿サイトの覇者であるYouTubeであればもっとたやすく再生回数を伸ばせそうなものだと思ってしまいそうになるけど、YouTubeには新人が発見されないという致命的な欠陥がある。
YouTubeには有名な人がさらに注目される仕組みしかない。
(欠陥というより、最大限効率化された形態だということもできるだろうけど。効率化された社会というのは貧富の差が拡大するものである)
ニコニコとようつべ両方動画をアップロードしている人の同じ曲の歌ってみたを比較しても、(有名な人を除いて)大抵ニコニコの方が再生回数が多い。
 

歌い手志願者は殺到している

ニコニコ動画の衰退とともに(そしてYouTubeは完全にはニコニコ動画の代替足り得ない)、それを抜きにして考えた歌ってみたの世界の変化も大きい。
機材調達などの敷居が昔よりも圧倒的に低くなったため、それはつまり「強い意気込みがなくても歌ってみたを投稿できる」ということなので、一見これは歌唱力の低迷を示唆しそうだ。
実際に、mix氏さんの方々から最近の歌い手の音声データの品質の低さへの嘆きの声というのも度々耳にする。
 
再生回数の低迷と歌唱力が反比例している印象
ただ、俺にはどうしても歌唱力のレベルが落ちているとは思えない。
「再生数が低いけど実力派」を探そうと思えば結構簡単に見つけられる。
俺の勘違いなのかもしれないが(そもそも昔より今のほうが真剣に探しているし)、以前はこんなに簡単にうまい人は見つからなかった気がする。
 
以上から、俺の感想をまとめるとこうだ。
「歌唱力がインフレし、再生回数はデフレしている」。
 
歌唱力がインフレしているように俺が感じる理由の仮説を一応立てた。
「人に歌を聞いてもらう」敷居が低くなって、歌い手志望がただ増えただけではなく頑張って歌を練習する人も増えたから、というのはどうだろう。
これで一応説明はできているとは思うが、しかし、正直自分で言っていて腑に落ちない面もある。
「歌い手にならみんななれるチャンスがあるから練習する人が増えた」程度では、歌唱力がインフレを起こすトリガーとしては要因が弱いように感じる。
 
「練習した程度」と言ってしまうことになったが、決して歌い手の人たちの努力を軽視しているわけではない。滅茶苦茶練習をしていそうな人の歌を聞いても「こんなに頑張っても本当に上手い人との差って埋まらないもんなんだなあ」としんみりすることが多いから、このように考えたまでだ。
(それから補足しておくと、練習が一切必要ないなどと寝ぼけたことを思っているわけではない。天才+努力を兼ねた人間のみが飛び抜けて歌のうまい人間になれるのではないかというのが俺の考えです。ただ歌上手い人の中で、血の滲むような努力がなければある程度のところまですら到達できなかった人っていうのはそんなにいないんじゃないかな。最終的なレベルが高い人は、大概最初からある程度うまいと思います)
 
数年でいきなり天才側の人口比がドカンと増えたなんてことはさすがに考えられないし、2015年当時と現在に感じる差はやはり昔の俺のリサーチ不足によるところが大きいのだろうか?
「歌唱力は天才のもの」と見なしている俺の考えもやはり間違っているかも知れない。俺の言ったことは印象に過ぎない。科学的根拠も客観的な統計もない。
 
歌い手供給過多
再生回数のデフレの原因は、十中八九歌い手の供給過多によるものだろう。上手い人もアホみたいに多い。この場においての「上手い」の基準には、友達同士のカラオケで目立つレベルの人は入れていない。
 
歌い手のブーム自体が終わってしまった、歌い手という存在そのものから世間が興味を失ったようには感じない。トップ層の人たちの飛ぶ鳥を落とす勢いは健在だ。
むしろ視聴者の方が足りていないように思う。このごろ動画を作って投稿するよりも、視聴者に徹したほうが有意義なのではないかとすら思い始めてきた。
 

 

最近発見したうまい歌い手の方々

 
最後に、俺が個人的にいいなと思った歌い手の方々を何名か掲載して、ささやかながら応援させていただくとしますか。
 
 
ちゃっかり自分の宣伝もするからな。
 

さいごに

 

私見を延々と述べたが、最初の方で申し上げたように、俺は新参者のひよっこである。

見当外れなことをまず間違いなくひとつやふたつ言っていると思うので、ご意見やご指摘などあればむしろ歓迎です。昔の肌感覚というものは検索しても出てこないし、調べるのが非常に難しいので、大変参考になります。 
 
 

主人公機っぽくない主人公機(ロボット)3選【ダークヒーロー】

主人公のロボットといえば、機動戦士ガンダムRX-78-2(普通のガンダムのことです。ガンダムって呼ぶと他のガンダムが紛らわしいので)のヒロイックなデザインをまず思い浮かべる人が多いだろう。
白を基調としたトリコロールカラーの配色は、いかにも主人公ですといった佇まいだ。細身でスタイルがいいというのもポイントのひとつかも知れない。
 

 
 
主人公という役柄には大体「世界の命運を救う」という役割が与えられる。
ならばその役割に準じた機体を与えられてしかるべきだ。
機動戦士ガンダムにおいては、RX-78-2のパイロットであるアムロ・レイも軍人の一人に過ぎないのだからこれは当てはまるかどうかというのは微妙なところだが。
 
しかし近年(近年というのがいつからを指すのかはわからない)、ひたすらヒロイックな主人公というのは流行らなくなってきたというか、胡散臭げに見られるようになってきている。それは作り手も受け手も善悪の分類というものがいかにエゴに基づかれているかということを考えるようになってきたからなのだろう。あるいは、我々の中のフラストレーションが、自己投影の先をもっと破壊的な方向へ見出すようになってきたのか。
 
その時代の変化は、ロボットアニメでいうと主人公の機体のデザインに現れている。
例えばエヴァンゲリオン初号機。
 

 
 
こいつを初めて見たときは絶対に悪役だと思った。おまけにパイロットが素朴な少年なので、ギャップによってより一層意味がわからなかった。
エヴァという作品の陰鬱な中身を象徴しているかのようなデザインだ。
また、この強面の外見は初号機の本来の姿ではなく、鎧のようなものである。この中身はエイリアンみたいにグロテスクで、さらに主人公っぽさからかけ離れている。
 
今回、善悪の概念が混迷している時代の中から生まれた「主人公っぽくない主人公機」を3つ選んできた。
エヴァンゲリオン初号機は定番過ぎたので、頭数には入れていない。初号機を除いて3選だ。
 

1.インパルスガンダム機動戦士ガンダムSEED DESTINY

 

 
 
 
言いたいことはわかる。この「インパルスガンダム」は機動戦士ガンダムの後継作品の中でもとりわけRX-78-2の要素を色濃く受け継いでいて、どう見たってヒロイックな見た目をしている。
一見今回のテーマには適していない。
しかし、今回のイチオシはこいつだ。
 
秘密は劇中での活躍にある。
パイロットのシン・アスカはMS(ロボット)の交戦による流れ弾で家族を亡くした過去を持つ。
彼はかつて自分の故郷に愛着とか忠誠心を持っていたのだが、故郷の指導者が戦争へ参加する意思を表明したことで戦火に巻き込まれ、家族が殺された。
 
シンは家族を守れなかった無力感と、故郷や戦争への恨みの中で鬱屈した不安定な性格に育った。趣味が読書であったり、静かにパソコンをいじっている様子が亡き妹のケータイの中に写真として残っているなど、本来は穏やかな少年であった様子が示唆されている。
まずここが「ヒロイックな主人公像」とは一線を画している。
 
そんなシンが操るインパルスガンダムは、たとえ見た目がヒロイックであろうとも悪魔のように映るのである。
 

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前作主人公キラ・ヤマトとの対決時のインパルスガンダム
シンの家族はキラ・ヤマトの流れ弾で犠牲になった(後からなかったことにされたけどどう考えてもキラの流れ弾で死んでた)。
そしてシンと恋人関係にあった女性もキラによって殺された。戦争なので逆恨みもいいところなのだが、とは言ってもシンの心中は察して余りある。それにこういう感情を制御できない未熟さもひたすらヒロイックな主人公にはない人間味であり、彼の魅力である。
 
また、このときシンのとった戦法が悪党の戦い方だった。
母艦を助けに早く戻らなければならないキラに粘着し、おまけに「不殺主義」によってコックピットを狙わないキラの弱みにつけ込んで弾道を予測したり挙句の果てに自分のコックピットを盾にしたりしながらじりじりと追い詰めた。その上、とうとう痺れを切らしたキラがコックピットを不意打ちで横断しようとするもそれを完璧に見切って躱してみせた。
 
 

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インパルスガンダムにはいくつか形態があって、これは近接戦闘に特化した「ソードインパルス」という形態だ。
これはシン・アスカが初めて種割れ(ざっくり言うと超サイヤ人になったみたいな)を起こした戦闘での一幕である。
 
インパルスやシンの母艦が罠にはめられ、敵対組織の艦隊に取り囲まれながら防戦一方で絶体絶命の状況まで追い込まれたのだが、シンは走馬灯の中に失った家族を見て覚醒した。1機で敵を全部滅ぼした。
また、シンの一行を罠にはめたのはかつてのシンの故郷だった。そこはオーブというかつての永世中立国だったのだが、確かシンの一行はオーブの要人を預かっていて、それをオーブまで送り届けた。シンは渋々それを手伝っていた。
 
オーブから出立したシン一行は、敵対組織の待ち伏せに合う(オーブとは違う組織)。確かそれはオーブの密告によるもので、シンたちは恩を仇で返された形となる。前方には敵対組織の地球連合軍が殺気立っており、背後は傍観を決め込むオーブによって退路を絶たれている。
 
シンにとって、オーブからの二度目の裏切りとなった。
シンが蹂躙したのは地球連合軍の大艦隊だが、本心ではその矛先はオーブに向かっていたのだろう。敵艦隊を壊滅させた後、シンは据わった視線をオーブへと送った。
 
 

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どう見ても悪役である。
 
「ダークヒーロー系主人公」はいつからか流行り始めている。
ただ俺は形だけのダークヒーローが多いかなと感じていて、各作品においてダークヒーローの主人公が出す結論というのは大抵の場合そこらへんの普通の主人公たちと大差ない。
主人公と魔王の立場を入れ替えたような作風であっても、結局主人公は主人公で魔王は魔王なのである。
 
しかしシン・アスカは違う。なんと行っても主役を降板させられ、いつの間にか前作主人公のキラ・ヤマトが主役に置き換わっていた。
途中からシンはただのヒールにされていた。お前こそ真のダークヒーローだよ。
これがSEED DESTINYという作品そのものの大不評を呼んだ原因のひとつにもなった。
ただ俺はシンに面白みのないクリーンな主人公にはなってほしくなかったので、シンが主人公のまま話が進んで、他のダークヒーロー作品のように最初は尖ってたけど結局普通の主人公になってしまうような展開にならなくてよかったとも思っている。
 
 

2.ヴェルトール(ゼノギアス

 

 
 
ゼノギアスの認知度というのがどれほどなのかいまいち掴めない。
独断と偏見によると、「名前を知っている人はそこそこいるが中身を全く知らない人がほとんど」だと思っている。
ゼノギアスが鬱ゲーだと言われていることまではご存知の方も多いと思う。
実際、このゲームはエヴァンゲリオンのもたらした流れのようなものが組み込まれていて、序盤など何の救いも見いだせないほど暗鬱である。
 
未プレイの人も多いだろうし、ゼノギアスの世界はネタバレ禁制のような雰囲気もあるので、多くは語らないことにする。
「主人公が禍々しいロボットに乗っている」という情報から期待するような衝撃的な展開は起こるだろうと言っておく。
 
 

3.ブラックサレナ(機動戦艦ナデシコ THE PRINCE OF DARKNESS

 

 
 
俺が知る中で一番主人公っぽくない主人公機だ。
黒を基調としたカラーリング、おまけに横幅が広い。
 
パイロットはテンカワ・アキトという青年なのだが、厳密に言うとこのとき彼は主人公ではない。
機動戦艦ナデシコにはTV版と劇場版があって、アキトはTV版の主人公であって劇場版の主人公ではないからだ。
TV版ではもっとヒロイックなロボットに乗っていたし、アキト本人の人格もダークヒーローと呼ぶべきところはなかった。優しい好青年という感じだった。
 
ブラックサレナという諢名は黒百合の意を持つ。花言葉は「復讐」らしい。
 
TV版の最終回と劇場版の劇中時間には数年の空白があって、その間テンカワ・アキトは妻のミスマル・ユリカ(TV版のヒロインで本編後に結婚)と共に死亡したとされていた。
詳しい説明は省くが、アキトとユリカは特異体質を持っていて、モルモットとしての価値が非常に高かった。そこに目をつけられ、拉致されていたのだ。
 
アキトもユリカも実験の道具にされた。具体的に何をされたのかは知らないが、アキトは五感の機能が何割か失われたと語る。
また、アキトはコックになるのが夢だとTV版の頃から何かに付けて言っていた。料理への思い入れは何度も描かれた。TV版と劇場版の空白時間には、アキトはラーメンの屋台をやっていた。しかし、失われた五感の中でも特に味覚が致命的らしく、アキトはもう以前のように料理を楽しむことは出来ない。
 
未だ囚われているミスマル・ユリカの救出と復讐のためにアキトが駆った機体、それがブラックサレナだ。
 
TV版の機動戦艦ナデシコはラブコメ感が結構押し出されていて、一見ロボットアニメと言うよりギャルゲーの延長上で見られてしまえそうな作風だった。それが劇場版では翻って、硬質で重たいシナリオになったというギャップがある。
 
ただ、TV版に価値がなかったかと言うと俺には絶対にそうは思えない。表面上こそTV版のナデシコはラブコメ+おまけのロボットと戦争要素だったが、平然と人間の業やパラドクスを突いてくるような鋭さがあった。テンカワ・アキトはラブコメの主人公らしい人当たりのいい好青年ではあったが、他の人間が素通りしていることをひたすら考えてしまう繊細さを持った主人公でもあった。
 
TV版と劇場版は雰囲気が一新されたが、頭角は既にTV版の時点で現れていたし(頭角が現れてたと言うかあれを劇場版のおまけだと言うには面白すぎる)、お膳立ても整っていたのである。
 

さいご 

 
以上である。また~~の~~何選みたいなのはやろうと思っている。
またお会いする機会があればよろしくお願いします。

ロジックにぶちのめされた俺達の理想の異性像

 
 
その昔、俺の異性への関心はアニメだとか漫画だとかの登場人物へ向かっていた。
その対象は別に芸能人でもよかったはずなのだが、俺の友達に芸能人の話で盛り上がるタイプが少なかったのと、月曜9時などのキラキラした世界に馴染めなかったことで、俺がアイドルの追っかけなどになることはなかった。
 
男であろうが女であろうが、異性を巡る問題というのはとても繊細だ。
特にオタクだとかアイドルのファンだといったものは異性への幻想が強すぎるあまりに、周囲の男性女性たちでは欠点が目についてしまって受け入れられないきらいがある。
だからこそ欠点が目に入らない、その上長所が装飾され尽くしたアニメキャラやアイドルを崇拝するようになる。
 
俺たちは綾波レイだとか櫻井翔なんかに(この両者を並立させることはオタクとジャニーズファンの両方から大ひんしゅくを買いそうだ)交際相手が存在したとしたらそれを許容できないだろうし、許容できたとしても大きな痛手を負うことになるだろう。
 
俺もエロゲの登場人物などに男の影があるかどうかなどで一喜一憂していた。
このあたりのオタク文化というのは基本的に客には夢を見させる方針で成り立っているが、そんな文化だからこそ殻に引きこもっているオタクたちへが抱く幻想へのアンチテーゼを内包した作品も生まれる。
俺はそこでものの見事にボコボコにされて帰ってきた。
 
そういった経験をするうちに、俺は二次元の少女というものに熱狂できなくなっていた。
我々男性の理想を絵に描いたようなキャラクターが現れても「もっと社会的地位の高い男がいたらそいつと付き合うでしょ」と思うようになったし、そもそも「いや、フィクションだし」とも思うようになった(オタクたちへの侮蔑として「現実見ろよ」というのはよく言われていたが、パーティピープルだろうがオタクだろうが幻想から脱却できている人間なんてほとんどいない。アニメを見ていなければ現実を見ているなどというのは大きな間違いだ。幻想から脱却するということは非常に難しい)。
 
オタク文化へ逃げ込むスタンスというのはふたつ考えられる。
それは「現実と理想を混同したまま理想へ逃げ込む」ってことと、「理想と現実を切り離しているが、つかの間の安らぎを求めて逃げ込む」の2つだ。ただ、この2つが峻別できるかというと、そうでもないような気がする。前者でも「うすうす僕が馬鹿馬鹿しいことをしているのはわかってますよ」ということもあるだろうし、後者が現実に理想を一切持ち込んでいないと断言することはできない。
 
いずれにせよ、オタク属性の人間は現実で願望を叶えられないから、それを架空の世界で叶えることを望んだのだ。こういう人たちは馬鹿にされがちだが、俺は有効な精神安定剤になりえると思うし、先ほども言ったがこんなことはオタク以外もやっている。
 
宗教の衰退と理想の異性像
 
しかし、ロジックを追求すれば必ず神は滅びる。
神は様々な形態をとってきた。そして神は必ずしもGODである必要はなく、人が我が身の安寧のために作り上げた幻想はそれだけで神足り得る。ヤハウェだろうがアニメキャラだろうがアイドルだろうが同じだ。
 
しかし論理が重視され、文明が洗練されてくると、神は力を失っていく。現代のキリスト教にかつてほどの力は残っていない。
このことはアニメキャラやアイドルにも起こりうると俺は思う。例えば、アイドルが排泄しないという幻想は容易に論破される。この程度であれば誰でもわかっていることだ。
そこで、ある漫画の中でお互いを唯一無二の異性だと信じている主人公とヒロインがいたとしよう。これは漫画なので、どれだけ都合のいいことを言ってもいい。現実の離婚率が何%であっても、この物語はフィクションであり実在の人物とは関係がない。
 
しかし、「何故現実のカップルのほとんどが別れるのか」について考えたとき、「これはフィクションだから」で済ませることはできない。神は死ぬ。
科学というのはつまり「このようなときにこうすれば必ずこうなります」ということだ。何故カップルが別れるのかだとか、人は異性にどういうときに惹かれるのかについて科学的に解明されている物事がどれくらいあるのかは知らないが、解明されていようがいまいが「つがい」の発生する傾向だとか法則は俺たちの文明の中に存在しているはずだ。
 
ここまで考えを巡らせれば、俺たちがかつて崇拝していたキャラクターは女神になどなりえないとおのずとわかってくる。「主人公と交際したのはあくまで条件が重なったから」。「主人公と別れていないのはまだ条件が訪れていないから」。「これまで主人公以外と交際していなかったのはたまたま条件が訪れていなかったから」。これらのことが見えてくる。
 
今ではコテコテの理想像であればあるほどわざとらしい女神像っぽくて白けてくる。女性を眺めているというよりは特定の出来事に特定のフィードバックをするプログラムを眺めているような気分である。
しかし、かといって現実の女性と関われるような気概を持てたかと言うと、いや、まったくです。
 
若い時間が短かったような気分がする
 
リンク先の、シロクマさんによるオタクや元オタクたちに深い示唆を与えてくれる記事では、二次元のキャラを眺めるときの目線が保護者的になったというようなことをおっしゃられている。
俺はシロクマさんよりもかなり若輩だが、もう既に気持ちがこういった方向へシフトしつつある。(もちろんシロクマさんほど俺が成熟しているなどとは口が裂けても言えない)。
これは見方によっては成熟だとも言えるのかも知れないが、俺は安堵するよりも遥かに恐ろしい。
 
それは若さを失いつつあるということだろうからだ。精神が若々しくなければ出来ないことがあると俺は思っていて、それをやる機会がもうじき失われるのだろうと予感させられる。おまけに俺は怠惰なので若ければ出来ないことというのは人生でほとんどやったことがない。
しかも理想よりも現実を以前よりも見られるようになったからといって、いいことは今のところ特にない。
 
このような観点からも、理想の異性像に熱狂できるということは羨ましくもあるのだった。
かわいいアニメのキャラを見ても「いや、どうせ状況次第でイケメンや金持ちとちょめちょめなのだろうししかしまあそれも人間なのだから仕方ないだろう」などと考えてしまう俺はおっさんである。
 

未来を求める俺たちに郷愁を感じる資格はあるのか?

今日俺は意味のわからない夢を見た。
どんな内容だったか言語化するのを馬鹿馬鹿しくなるほど支離滅裂な夢だったが、それは過去へと記憶を遡らせるきっかけをもたらした。
夢というのは郷愁と固く結びついている。内容の論理が破綻していても、その中に懐かしいと思わせる何かが散りばめられていることは珍しくない。
学校生活をしていた頃の同級生や、懐かしの場所もどきだとか、あるいはまったく自分とは関係のないことなのに何故だかそれに懐かしさを覚えることもある。
 
夢には母親が昔の姿で現れた。
当たり前だが、母親っていうのは老いていって大抵の場合子供よりも先に死ぬ。「若い頃の母親」という像は、懐かしさの対象であり、なおかつ死を予期させない巨大な幻想だ。
俺はまだ経験したことはないが、母親が死ぬということはおそらく人生の中で一番苦しい出来事となるのだろう。
 
現代では必ずしもそうではないかも知れない。
それは現代の若者の精神がささくれ立っていて「親などどうでもいい」というマインドであるのが珍しくないということもそうだし、母親が母親の役割を果たさない時代になってきているからということでもあるだろう。
俺も「別にこいつが死んでもいいな」と母親に対して思っていた時期がある。振り返ってみれば非常に恐ろしいのだが。
 
俺の母親はかつてヒステリックな人間で、何かの拍子に激昂していて俺はそれが駄目だったのだが、服薬している抗うつ剤とか睡眠薬の影響なのか、最近は態度が以前よりも遥かに丸い。
ただ丸くなっただけなら一安心だ。それは多分、精神を苛んできた不安の原因が取り除かれたか改善されたということだろう。ただ、俺の母親はあくまで薬によってそれらを抑え込んでいるだけだ。
 
俺の祖母は認知症だったのだが、認知症の祖母と最近の母親が重なるようになってきた。
頭の回転が遅くなっているし、喋っているのを聞いていても話の中身が見えてこない。意思の疎通が取りづらい。
母親の肉体的な死よりも先に精神的な死を予感させる。
俺が夢の中の若い母親に見たのは、「死なない母親」と「精神が健康な母親」の幻想だ。
 
俺は今母親に若返ってほしいという願望を持っているのだと思うが、以前は真逆に「もっとおとなしくなれ」とかひどいときには「死ね」と思っていた。
完璧に言っていることが逆転している。虫のいい話だ。
案外死んだら死んだで悲しむのかもしれないなとは昔も思っていたが。
 
現状で満足しようとしない俺たち
 
俺たちは未来へ向かって「もっといい状態」を求めようとする。しかし未来を求めるということは、過去を置き去りにすることと不可分だ。
そして俺たちは未来へたどり着くと今度は戯れに「あの頃へ戻りたい」と言い始める。多分、過去へ戻ることが出来たとしてもそこに俺たちの理想はないのだが。だからこそ俺は母親の件に限らず、あの頃未来を求めていたのだから。
 
くだらないエピソードだが、たとえばこういうのもある。
俺はかつてPSO2というオンラインゲームにのめりこんでいたのだが、飽きたとかモチベーションが枯れたとか新規コンテンツについていけないとか他にやりたいことがあったということを言い訳にやめてそれきりだ。確か2015年中のことだった。
それから4年以上が過ぎて、今やあの頃のことは懐かしい思い出となりつつあり、少しばかり昔に戻りたいと空想することがある。「あの人ともっと仲良くなっておけばよかったなあ」とかそういうちょっとした後悔もある。
 
しかし、俺はオンラインゲームをやめることに理があると判断してやめたのだ。俺はあくまで自らの意思でその過去を踏みにじったのである。
そして勝手にも自分が捨てた過去に対して俺は未練を感じている。
 
かと言って、一切未来を模索せず過去と現在に縋り付いていたところで、人は緩やかに滅んでいくだけだろう。
俺たちが停滞している間に周囲の環境も人間も先へ進んでいく。俺たちはとにかく取り残されることを恐れる。未来からも、未来のもたらす焦りからも逃れることはできない。
 
 
 
 

道は犠牲で出来ている アスファルトは涙でサービスは吐瀉物

町中は悲しみで出来ているが、俺達はいつもそれを素通りしている。
 
月に数回くらい通っている道路沿いに駐車場が出来た。
俺はそこでの工事の様子を何回か見たことがある。
 
50後半か60くらいのおっちゃんに、20ちょっとくらいのにーちゃんがどやされていた。
「人として最低だなお前!!」とそのにーちゃんは罵倒されていたのだが、おっちゃんが極度に過激に物事を捉えるのか口が悪かったのか、本当にあのにーちゃんが人として常軌を逸してたのかはわからない。
 
俺はその光景に対し、勝手にパワーハラスメントという定義を当てはめたのだが、事実がどうだったのかは確かめようがない。
全ては俺の想像だ。
 
単発のアルバイトで現場監督っぽい人に怒られまくったことがある。
そのときは俺が駄目すぎたのとその人の口が悪かったのが5:5と言ったところだろう。
あのおばさんが所構わず当たり散らしていたのも事実だが、俺が明らかに足を引っ張っていたのもまた事実だ。
 
それからというもの、その場所と似たような町並みだとか職場を目にしたとき、途方もなくやるせない気分に支配されるようになった。
社会不適合者である自分の実態をまざまざと浮き上がらされるからだ。
 
さらにそこから想像が膨らみ、今は街中全体、なんなら世界全体に対して虚無感の対象が広がった。
どこを歩いていても「本当に俺はここにいてもいいのか?」と思っている。
 
それは俺が自分が適合できそうにない場所にいることに不安を覚えるということもでもあるが、同時に「誰かの苦労の上を漫然と踏みにじっていいのだろうか」ということでもある。
俺が今まで尻目に見てきた場所では、誰かが圧倒的なストレスに晒されてきたはずだ。
俺が今これを打っている百貨店にも負のエピソードがあるんだろう。
 
ただ、俺たちは「いびられる部下といびる上司」という情景から、どうしても上司が悪だというイメージを作り上げがちだが、必ずしもそうとは言えないのではないだろうかと最近は考えている。
 
何故なら、ストレスは得てして循環するからだ。
わかりやすい逸話だと、虐待された子供は将来我が子を虐待しやすくなるというように。
(俺はこの話の統計とか科学的なソースについては知らないのだが、まあそういうものだろうと思っている)
 
俺たちは当然のように虐待やハラスメントが悪だと言ってきた。
だがそれらを断罪する俺たち、もしくは被害者であった俺たちが、今後どこかで誰かを傷つけないとも限らない。
むしろ既に横暴さで人を振り回していないとも限らない。
「やな上司」「クソ客」がどんな過去を持っているのかも俺たちにはわからない。
 
かくいう俺はもう既に腐るほど罪を犯している。
 
世界は誰かの犠牲で出来ている
 
ジョージアのCMは極めて情緒的だ。
「世界は誰かの仕事で出来ている」。
表舞台に立たない数多くの凡人たちの尊厳というものを最大限称賛した優れたキャッチフレーズだ。
 
ただ、それではまだ足りないと思う。
世界中のサービスや設備や商品は誰かの仕事で出来ているが、そしてさらにその陰には使い潰される労働者の姿がある。
俺たちは人々の努力や創意工夫の上だけで生活しているのではない。便利な生活とは、確実に誰かの精神を刈り取って成長している。
いたぶり、いたぶられるという負の連鎖に言及し、踏み込まなければ、人間の尊厳は掬い上げられないのではないだろうか。
 
しかしそこに善悪の二元論を持ち込んでしまえば、俺たちはたちまち数の暴力だとか権力だとかによってただ不快なものを排斥しようとするようになるだろう。
上司が陰湿に部下をなじるのと、クソ上司の歪なメンタルを分析して徹底的に非難するのは、多分そんなに変わらない。
被害者を守って加害者を糾弾するのは一見正義に近しいように映るが、どちらも人間のサディスティックな衝動の為せる技だ。
俺たちが悪人を罵倒している内は、悪人はこの世界から消えない。
でもまあ人間がサディスティックな衝動を感じないようになるのは無理だろうから、世の中はずっとこのままだろう。
 
だからこそ一層世の中は無情だ。
俺たちはどれだけどうしようもない目に遭おうとも、そこへ善悪を持ち込んで自分を慰めることすら許されない。
やろうと思えば出来なくはないが、それは致命的に的が外れているか、自分へ跳ね返ってくるのだ。

卒業式が中止になって安堵してるはぐれ者もいるでしょう

コロナウイルスの話はあまりしたくはないのだが、ひとつだけ触れておきたいことがある。
感染拡大防止のため、各教育機関で休校・卒業式中止の流れが盛んになっていることについてだ。
これがそこそこ大きな騒動になっていて(まあ当然なのだが)、ツイッターでもどこかから嘆きのツイートが流れてきた。
卒業式は大勢の人々にとって青春を彩る最後の行事だ。それが突然流行したウイルスにぶち壊されたとあっては、鬱憤もたまるだろう。
 
ただ、俺はそんな彼らのやるせなさを汲み取ることはできるのだが、どうしてもあまり深いところでの共感というか同情というか、同じ立場に立って嘆いてやることはできない。
別に冷めているわけではない。子供たちがどうなろうと知ったことではないと思っているわけではない。
どちらかと言わなくても俺は物事を深刻に捉える方だ。
 
不謹慎だがコロナウイルスに救われる人もいる
 
コロナウイルスは面倒事を山ほど持ってきたが、コロナウイルスのおかげでほっとしていることがひとつだけある。
学校だとか高校だとか青春だとか卒業だとか言うと、この期に及んでまだ輝かしいイメージが趨勢を占めているようだが、知っての通りその枠組の中には必ず「はぐれ」の人々が存在する。
人間は必ず群れを作るが、人間は全員余すところなく群れに所属できるほどには均一ではない。
 
卒業式というのは学校生活の輝かしさの代表格だ。
大概の社会に適合している人たちにとってはよき思い出になる。
しかし、「群れ」があることと「はぐれ」がいることは必ず表裏一体なので、誰かの幸せの裏では誰かが疎外感を抱いている。
はぐれにとって、卒業式はとりわけ嫌な日となるだろう。
群れとはぐれではそれぞれ印象が正反対なのだ。
 
俺は別に、大多数の「群れ」に所属している人たちが落ち込んだり怒っているのを見たりして、「ざまあみろ」と思っているわけではない。
まあざまあみろと思ってしまう人の気持もわかるのだが、俺は思っていない。
 
ただ卒業式が中止になったということは、卒業式で疎外感を持つはずだった人々が、疎外感を持つことを最小限に抑えられたということだともいえる。
だから俺は安心しているのである。
 
「群れ」の文脈で生きてきた、いわば輝かしい青春の中で生きてきた人たちというのは、はっきり言って放っておいても救われる人々だ。
卒業式がなくなった程度で極端に不幸になったりはしない。
彼らの気持ちを満たすドラマや音楽や芸能人や出来事は世の中にありふれているからだ。
対して、卒業式が中止になったことで安心してしまうような人々が救われる機会は、それと比較して絶望的なまでに少ない。
 
それは適合できない「はぐれ」の責任や問題なのだろうか?
卒業式がやりたかった人たちを尻目に安心する彼らは不謹慎だろうか? 和を乱す不心得者か? 断罪されるべきか?
俺はそうは思わない。
 
少々過激な話をしてみる。
今、世界中に存在しているはぐれの人たちを全員殺してみるとする。そうすれば、世の中はすべてはぐれのいない「群れ」だけで満たされるようになるのか?
多分ならない。そこからまた新しいはぐれが生まれていなくなった分を埋め合わされるだけだ。
 
そして、俺たちの幸福は必ず誰かの損のもとに成り立つ。
幸せそうな人々の傍らではぐれは孤独を燻ぶらせてきた。損をする順番が今度は普段幸せそうにしている人々に回ってきただけだ。
俺たちは全員幸と不幸の押し付け合いに参加している。
誰一人一方的な被害者でも加害者でもない。
 
俺がもし今卒業生だったら、おそらく心底安堵していた。
自分の精神年齢が多感な10代だったと仮定すれば、悔しがっている人たちに対してざまあみろなどと内心毒づいていたかもしれない。
先ほども書いたが、今はそんなことは思っていない。
できることならどっちも得をするようなところに落ち着けばいいのにと思っている。