フィクションの住人たち

幻想は現実から生まれ、現実を過酷にしました。

卒業式が中止になって安堵してるはぐれ者もいるでしょう

コロナウイルスの話はあまりしたくはないのだが、ひとつだけ触れておきたいことがある。
感染拡大防止のため、各教育機関で休校・卒業式中止の流れが盛んになっていることについてだ。
これがそこそこ大きな騒動になっていて(まあ当然なのだが)、ツイッターでもどこかから嘆きのツイートが流れてきた。
卒業式は大勢の人々にとって青春を彩る最後の行事だ。それが突然流行したウイルスにぶち壊されたとあっては、鬱憤もたまるだろう。
 
ただ、俺はそんな彼らのやるせなさを汲み取ることはできるのだが、どうしてもあまり深いところでの共感というか同情というか、同じ立場に立って嘆いてやることはできない。
別に冷めているわけではない。子供たちがどうなろうと知ったことではないと思っているわけではない。
どちらかと言わなくても俺は物事を深刻に捉える方だ。
 
不謹慎だがコロナウイルスに救われる人もいる
 
コロナウイルスは面倒事を山ほど持ってきたが、コロナウイルスのおかげでほっとしていることがひとつだけある。
学校だとか高校だとか青春だとか卒業だとか言うと、この期に及んでまだ輝かしいイメージが趨勢を占めているようだが、知っての通りその枠組の中には必ず「はぐれ」の人々が存在する。
人間は必ず群れを作るが、人間は全員余すところなく群れに所属できるほどには均一ではない。
 
卒業式というのは学校生活の輝かしさの代表格だ。
大概の社会に適合している人たちにとってはよき思い出になる。
しかし、「群れ」があることと「はぐれ」がいることは必ず表裏一体なので、誰かの幸せの裏では誰かが疎外感を抱いている。
はぐれにとって、卒業式はとりわけ嫌な日となるだろう。
群れとはぐれではそれぞれ印象が正反対なのだ。
 
俺は別に、大多数の「群れ」に所属している人たちが落ち込んだり怒っているのを見たりして、「ざまあみろ」と思っているわけではない。
まあざまあみろと思ってしまう人の気持もわかるのだが、俺は思っていない。
 
ただ卒業式が中止になったということは、卒業式で疎外感を持つはずだった人々が、疎外感を持つことを最小限に抑えられたということだともいえる。
だから俺は安心しているのである。
 
「群れ」の文脈で生きてきた、いわば輝かしい青春の中で生きてきた人たちというのは、はっきり言って放っておいても救われる人々だ。
卒業式がなくなった程度で極端に不幸になったりはしない。
彼らの気持ちを満たすドラマや音楽や芸能人や出来事は世の中にありふれているからだ。
対して、卒業式が中止になったことで安心してしまうような人々が救われる機会は、それと比較して絶望的なまでに少ない。
 
それは適合できない「はぐれ」の責任や問題なのだろうか?
卒業式がやりたかった人たちを尻目に安心する彼らは不謹慎だろうか? 和を乱す不心得者か? 断罪されるべきか?
俺はそうは思わない。
 
少々過激な話をしてみる。
今、世界中に存在しているはぐれの人たちを全員殺してみるとする。そうすれば、世の中はすべてはぐれのいない「群れ」だけで満たされるようになるのか?
多分ならない。そこからまた新しいはぐれが生まれていなくなった分を埋め合わされるだけだ。
 
そして、俺たちの幸福は必ず誰かの損のもとに成り立つ。
幸せそうな人々の傍らではぐれは孤独を燻ぶらせてきた。損をする順番が今度は普段幸せそうにしている人々に回ってきただけだ。
俺たちは全員幸と不幸の押し付け合いに参加している。
誰一人一方的な被害者でも加害者でもない。
 
俺がもし今卒業生だったら、おそらく心底安堵していた。
自分の精神年齢が多感な10代だったと仮定すれば、悔しがっている人たちに対してざまあみろなどと内心毒づいていたかもしれない。
先ほども書いたが、今はそんなことは思っていない。
できることならどっちも得をするようなところに落ち着けばいいのにと思っている。